最近LGBTというワードが定着してきた。 NetflixにもLGBTというカテゴリーがある位だ。自分はまだ観てないがおっさんずラブという同性愛ラブコメドラマがヒットし、LGBTフレンドリーな企業、同性パートナーシップを認める市町区などが声を出して来た。
以前からゲイアクティビティの活動はあったが、契機はゲイアプリの普及や、Apple社長のカミングアウトが大きかったと思う。ホモフォビアの人もiPhoneを手放す事は出来ないし、ゲイAppが匿名だったゲイソサエティの個々の輪郭を明らかにし、若い世代を中心にゲイを認める許容ができた為ではないだろうか?
この傾向はとてもいい事だと思う(ようになってきた)。日本の同性愛はキリスト・イスラム教圏下、ナチスのピンクトライアングルのような強烈な差別・迫害がなかった分、LGBTアクティビティに冷ややかな目線を向けられがちだ。
自分もそう感じていた。問題を大きく捉えがちだと。保毛尾田保毛男くらい笑い飛ばせと。かつて新木場で起こった殺人事件を自業自得と思えと。 むしろ若い時の自分はこういう活動が嫌いだった。というよりゲイを意識させるものが。
二丁目で配布されるコンドーム、スポンサー付きのゲイパレード、公共プールでのTバック、褌着用、ストレートに煙たがれるハッテン行為。 クローズにしてあった「同性とセックスする事実」をオープンにさせる人物・事項を見聞きしたくもないし、あえて言う事も無いだろうという気持ちがあったからだと思う。
話しはずれるが自分が学生時代、『ファビュラス』というゲイ雑誌が発行された。セックスやポルノを排除したゲイ雑誌として一部の人に注目されたが直ぐに廃刊になってしまった。廃刊の原因は多くのゲイにとって、セックスやポルノ以外のサービス・ライフスタイルはヘテロセクシャルと同じでいいという事ではないだろうか? こう考えるとゲイとヘテロセクシャルを隔てるものは改めて『性志向』だけだと思う。
日本は衆道、稚児文化があった分、同性愛に寛容な国と多くの文化人は言うが、かつての日本には男・女とは別に少年(青年)という性があったのであって、それでは未成年淫交を認める見解になる。 反同性愛の考えが明治以降に形成されたのであれば、今ある同性愛のパートナーシップの考えもその頃に形成されたと言えないか? おそらく小姓と恋愛関係にあった織田信長も武田信玄も女性と結婚・性行為をし子を残していった。一夫多妻(多夫)を今の日本社会が認めるはずもない。
前置きは長くなったが自分自身、この年齢になって男とセックスする自分を許容できる様になってきた。『チンポ咥えるの?気持ち悪い』なんていう嘲笑など今は何とも思わないし、他人に言われる覚えもない。他人のプライベートに口を出さない。それが大人の所作だと覚えたからかもしれない。
ちなみに生物的にペニスもクリトリスも根源的には同じだ。
本題に入るが、仮にゲイのパートナーシップを配偶者として日本社会が受け入れる器があるのなら、我々ゲイの生活はどれくらい変わるだろうか? ゲイという社会的マイノリティ故にか、アクティビストだけでなく我々は他のゲイに一挙手一投足な考えを押し付けがちである。 深夜の公園で全裸でオナニーしようが、乱交パーティーしようが(未成年淫行、威力業務妨害等の法的に違反する行為は取り締まるべき。)、たまに男とセックスするが女性と結婚しようが「個の問題」である。 もちろん生涯のパートナーとマンションを購入して、男女の配偶者の様な生活を送るのも自由だ。
レインボーフラッグを掲げるパレードは一体どこに向かうのか?
ゲイへの偏見 ・差別・迫害など決っして許されない。冷やかし、セクハラなど下劣な行為だ。
ただ保毛尾田保毛男を嫌う声も、それ位いいじゃん、という声も認めたい。例の『生産性がない』の意見はやはり看過できないが、魔女狩りの如く自民党杉田議員への脅迫行為などはやり過ぎだ。
(※2020年12月追記 杉田発言は看過できないと思うようになった。)
同級生にアウディングをされ自殺した大学生がいた。彼が感じた孤独・恐怖・恥や罪の意識を思えば、自分も苦しく感じる。彼らの生を支える続きる為にも、レインボーフラッグは掲げていかなくてはならないものだろう。
ただその先の青写真をそろそろ見せてはくれないだろうか?自分らのカタルシスだけのレインボーフラッグなど見たくはない。ましては一部の政党の党利に利用されるなんて情けない。
最期に、自然科学に見られる同性愛事象に目を向ければ、同性愛を排除する考えは神に背くものだと自分は思う。