御子は巫女だった。

「汚濁の御子」

以前そのような作品を書き上げた。今見れば当時影響受けた「リリイ・シュシュのすべて」「その男凶暴につき」「エヴァンゲリオン」「渚のシンドバット」等のシーンを意識か無意識化でパッチワークの様につなぎ合わせた作品だった。

「よく映画を観て勉強してるか?」と恩師に言われたものだが、イメージの原風景がオリジナルではなくなる事が怖く感じ、そう言われる事が好きではなかった。

しかし今は、練り出したアイデアが完璧なオリジナルで有ることを追求するのは危険でないかと思う様になった。松本人志監督の様に「才能の殻」に閉じこもってしまう事になると。

無意識なインスピレーションの結果、産まれたアイデアに他の類似性があったとしても、それはOKと思う様になった。影響を追い出そうとする姿勢は、それ自体が目的となってしまう恐れがあると思う。

前置きが長くなったが「汚濁の御子」という作品は当時「汚濁の巫女」という作品として執筆した。アメノウズメのように神降臨の為、儀式を司る巫女として。うろ覚えだが、おそらく担任教師を強姦する事を目撃する事で神たる少年は「愛の再認」をしたかったのだろう。しかし同性愛向けの成人ビデオで「巫女」という言葉は却下され「汚濁の御子」となった。これが良かったかどうかは分からない。ただ視点が少年に向けられたのは確かだろう。

皮肉にもこの作品がゴシップを兼ねて、2ch等で話題になった。
当時「汚濁の御子」に出演してくれたモデルさんには申し訳なく思う。ゲイビデオのモデルはギャランティが発生してもプロフェッショナルではない。演技を失笑する方は素人同然のモデルを使う業界の運営を斟酌して頂きたいと思う。


(参考文献)